私の経歴

代表取締役 伊藤芳明

1976年(0歳)

12月、埼玉県草加市吉町で産まれる。
(草加吉町で祖父が革の鞣し工場を営んでおり、父と母は、そこの敷地内の平家住宅に住みながら工場で働いていた。)

1981年(5歳)

お隣の八潮市西袋に父が土地60坪を購入し引越す、建物は今の積水ハウスで注文住宅。南向きで日当たりも良く、友達もよく遊びに来てくれて自慢の家だった。そこで、父母、男3人兄弟の長男として過ごした。

1996年(20歳)

父から「この家を売らないといけなくなった。」と告げられる。
もう買い手も決まっていて、1か月後には引越ししなければならないと。
どうやら、住宅ローンの支払いが滞っていて、競売になっていたらしい。

あまりにも急なことで、頭が真っ白になったのを覚えている。
とにかく、引っ越さないといけないとのことで、慌てて、賃貸物件を探した。
そして、草加市中央の賃貸マンション3DK(55㎡位)に引越しした。

今まで、2階建て4LDK 120㎡位あったのが、3DK55㎡のマンションへ、荷物も殆ど処分し、母の着物ダンスだけ4本くらい持っていき、タンスが2部屋の3分の1を占めていた。部屋数も足りず、当時中学生の3男と自分が同部屋になった。

兄弟仲は良かったが、とはいえ年頃の男二人が狭い部屋で過ごすのはストレスが半端なかった。
その頃から日に日に、「早く就職して、家を出たい。」という、思いが強くなった。
また、「稼がないと普通の生活も出来ない。」ことを知った。

不動産業界への第一歩

就職活動をする年齢となり、特にやりたいこともなかったが、「住まい」に対しては思いが強かった。また、稼げそうなイメージがある不動産業界を受けるようなった。

運よく、大手の賃貸仲介業の会社に決まり、地元の草加営業所に配属が決まった。
ちなみに、マンション販売や戸建て販売は、当時は、飛込営業がメインで賃貸ならお客さんが勝手に来てくれて楽そう、とういう理由で賃貸の会社を選んだ。

しかしながら、入社したばかりの営業にお客さんが回ってくる訳もなく、物件調達と言って、紹介出来る部屋を増やすため、空いているアパートをひたすら歩いて探して、大家さんらしき家を見つけて、「この辺で探しているお客様がいるので紹介させて頂けませんか。」という結局、飛込営業をずっとしていた。

そこで、営業のメンタルは鍛えられた気がする。自分で探してきたアパートを、店頭に来てくれたお客様に紹介し、オーナー様と借主と双方に喜んで頂だける仲介業の楽しさを知った。
つづく。

2003年(27歳)

妻と入籍し、長男を授かった。同時に宅地建物取引士の試験に合格。
谷塚駅徒歩6分の中古賃貸マンションを買った。

まだ、賃貸営業をしていたが、稼ぎもよくなく、ゆくゆくは独立したいと思うようになってきた。そのためには、賃貸だけじゃ駄目だと。売買も経験したいと思うようになった。

2005年(29歳)

地元の大手不動産総合ディベロパーP社に入社させて頂くこととなった。
当時は、中途採用の営業には、誰にでも丁寧に教えるような文化はなく、「まず、お客様を見つけてこい。教えるのはそれからだ。」といった感じで、新築物件の周辺の飛込やポスティングチラシの配布などを遠くまで自転車を漕ぎながらひたすらおこなっていた。

私が配属した営業所の所長や先輩にもよくして頂き、お客様にも恵まれ、入社してすぐ成績も残せるようになり、役職も年収も順調に上がって行った。

2013年(37歳)〜2016年(40歳)

37才で営業所長に就任。
毎月の売り上げ目標の達成するのが当たり前で、未達だと犯罪者になったような気分だった。そこで、マネジメント感覚を身に着けさせて頂いたのは感謝しかない。

40才の時、このまま今の会社で上を目指すか、独立するか決断しようと思った。
会社員でいくら役職が上がろうとも結局、社長や部長にお伺いを立てなければ、ならない。自分の責任と自分の判断で仕事がしたい。自分が死ぬときに「あの時、やっておけば良かった。」と思いたくない。と思い、独立することを決めました。

大手の課長クラスの収入ももらっていたので、妻は、「長男も来年高校入学なのに、何馬鹿なことを言っているの?」と猛反対でしたが、これからの景色は、妻にイメージ出来るわけもなく、自分の人生でもあるので計画を進めることにしました。

必死に開業資金を貯めながら、日本政策金融公庫や独立した先輩のお話や、ユーチューブで独立開業の勉強をし2019年11月に退職しました。

2019年12月(43歳):独立開業

宅建業の免許を取得し独立開業しました。
それからは、本当に紆余曲折ありましたが、おかげさまで7年目となりました。
本当に沢山の人に支えられて、ここまでやってこれました。

株式会社 谷塚不動産 外観